うまくいかないことがあるとき、落ち込んだり、できていない、自分に価値がないんじゃないかと思ったりすることがあります。
ぼくもたびたびそう思うことがありました。
そういうときは、心を空っぽにしましょう。
今朝ぼくは、自分が空き地の草っ原の一本の雑草だというイメージを頭に描いてみました。
実際に俯瞰して見れば、人間も一人ひとりがただ生きている小さな存在でしかありません。
どんなにお金持ちでも、有名でも、地位が高いとみられる人でも、それは社会的な価値でしかありません。
一人ひとりの価値は、生きていることそのものであり、感じていることがすべて価値のあるものであるはずです。
深く息を吸い込み、酸素がじんわりと染み込む。太陽は輝き、雲が流れて一瞬たりとも同じ形に止まることがありません。風が吹き、肌を撫でて通ります。心地よかったり、寒かったり、暑かったりします。
すべてただ生きているだけで感じることであり、今ここにある世界は、その感性から作り出されたものです。
ぼくは小さな漁村で生まれました。幼い頃、海岸にある岩のてっぺんによじ登り、周囲を眺めたとき、今ここにある、自分が見ている世界は、目を閉じると消えて、目を開くと閉じる前と同じように見えました。
ふと、ずっと変わらないように見えるこの世界は、見ている人がいなければ存在しないんだと強く感じたとき、なんだか怖くなりました。世界とぼくは一対の存在で、ぼくはぼくだけの世界を見ているんだと思いました。
実際に、この世界は自分が感じられるようにしか作られていませんでした。虫のようにミクロの世界は見えないし、鳥のように遠くの山のカタチは見えません。
学校では、集団という社会の中での価値を教えられます。まるで価値ということばが社会のためにあるかのようでした。ただ感じたこと、ただ言ったこと、ただやったことは、何も評価されませんでした。
今は、もうその社会の価値から離れてもいいんじゃないかと思います。何もなくていいし、何もしなくても構いません。
ただ一人ひとりが感じることから生まれる何かを大切にしていけたら、新しい時代が始まるような気がします。