田村虎蔵さん(以下虎蔵さん)は、1873年(明治6年)鳥取県岩美郡馬場村(現在の岩美町馬場)で農家の末っ子として生まれました。ぼくが生まれ住んでいるのは岩美町田後(たじり)で、小さい頃から昔の人として、なんとなく知っていたような気がします。はっきり郷土の偉人として意識するようになったのは、大人になってからだったと思います。

その虎蔵さんと瀧廉太郎さん(以下廉太郎さん)との関係が、浅学にして、これまであまり文献に書かれていないように思われるので、少し掘り下げてみたいと思いました。

虎蔵さんというと、「もしもしかめよ」の出だしで歌われる「うさぎとかめ」を作曲された納所辨次郎さんとともに、言文一致唱歌を提唱した人として有名です。生涯を通じて、たくさんの名曲を送り出し、寸暇を惜しんで全国をまわり、学校音楽教育や歌唱指導にも熱心に取り組んでこられた方です。

虎蔵さんの作曲した曲には、符点の弾んだリズムが使われていて、明るい元気な曲調が多いという印象があります。

ところが明治39年に『尋常小学唱歌』に掲載された「敦盛と忠度」(その後「青葉の笛」と改題)は、それまでと違う、ゆったりとした哀愁のある曲調となっています。詞の内容が重みのあるものだったからというのもあるんですが、その後もこれほどゆったりした曲は作られていないのが、ぼくは不思議に思いました。そして、それはたまたま偶然なんだろうぐらいにしか思っていなかったのですが、曲の出だしの音の使い方が廉太郎さんの「荒城の月」によく似ていると思っていました。

  • 田村虎蔵 1873年(明治6年)5月24日生まれ、昭和18年11月7日没
  • 瀧廉太郎 1879年(明治12年)8月24日生まれ、明治36年6月29日没

虎蔵さんと廉太郎さんは、6歳違いです。それぞれが別々の地で紆余曲折を経て音楽に出会っていました。その二人に接点が生まれた場所が東京音楽学校(今の東京芸大)です。

  • 田村虎蔵 18歳 1892年(明治25年)東京音楽学校入学
  • 瀧廉太郎 14歳 1894年(明治27年)東京音楽学校入学

入学した年は2年しか変わりません。ぐっと接近してきたと思います。当時東京音楽学校には、永井幸次さん、岡野貞一さんも在学していました。当時の校長先生も鳥取出身の村岡範為馳(むらおかはんいち)さんですから、明治の鳥取もすごいです。

言文一致唱歌

  • 田村虎蔵 26歳 1900年(明治33年)『幼年唱歌』「金太郎」
  • 瀧廉太郎 20歳 1900年(明治33年)『幼稚園唱歌』「花」「お正月」
  • 瀧廉太郎 21歳 1901年(明治34年)『中学唱歌』「箱根八里」「荒城の月」

1900年(明治33年)くらいから、言文一致唱歌がどんどん生まれてきます。廉太郎さんの作曲した「もういーくつ寝ると」の「お正月」(東くめ作詞)が、虎蔵さんの「金太郎」と同じ頃に生まれています。

虎蔵さんから見れば、身近に6歳若い才能が生まれたことを羨ましくも、頼もしく感じていたと想像します。廉太郎さんから見れば、虎蔵さんは偉大な先輩です。翌年の「箱根八里」は、虎蔵さんの曲をリスペクトしたかのような符点の軽快で明るい曲調の曲です。お互い切磋琢磨して成長していく関係が築かれると思い描いていたんじゃないかと思います。

瀧廉太郎死去

ところが、廉太郎さんはドイツ・ライプツィヒに留学してわずか5ヶ月後に肺結核を患い、帰国して療養していた大分で1903年(明治36年)6月29日満23歳で亡くなってしまいます。

このことは、虎蔵さんもショックだったと思います。

虎蔵さんが「青葉の笛」を発表したのが、廉太郎さんが亡くなってから3年後の1906年(明治39年)でした。音楽の才能を持った若者が無念の死を迎える歌詞の内容は、廉太郎さんを偲んでいるようにも思われます。

投稿者 Miyuu

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