「時間」とは、ただ3次元空間での変化が見えるようになっただけのもの。

秒針がひと目盛り動くのを見て、1秒経ったと思う。カレンダーの日付や新聞の日付が変わったのを見て、ああ今日が何月何日なんだと、思う。誰も本当は、この3次元空間で時間というものの正体を見たことがない。すべてが感覚であり、錯覚でしかない。

もちろん、年月の長さという感覚は誰もが持っている。1歳だった人が、いきなり20歳には、ならない。変化が大きければ大きいほど、そこに至る「時間的」経過が存在する。「変化の大きさ=必要な時間」というわけだ。それに、生命は若返りはしないと考えられるように、この物理空間での変化=時間というのは、認識の上では、戻ることがない、不可逆的なものだ。

認識というものは、一人ひとり違う。その結果として、変化の度合いも変わってくる。当然、一人ひとりの時間という概念が違うはずなんだけど、共通の空間というものも確かにあって、学校や職場、プロジェクトなどの時間の枠組みを目の前にすると、まるで時間という概念が同じものとして存在するという錯覚に陥ってしまう。

「時間が足りない。」「時間に追われる。」という概念も、その錯覚から生まれるものだ。どんな概念を持とうが持たまいが、行動することによって、それに対応した変化が現れる。他人のほうが、自分より「時間の使い方が優れている。」という考え方も、証明することが不可能で、まったく根拠がない。もしそう言えることがあるとしたら、行動したか、変化があったかということだけだ。

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