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スピリチュアル・信じる?信じない?

スピリチュアルについて、興味はあるんだけど、まわりに話せる人がいない。なんか変な人って思われそうで言えない。とか、あると思います。

ぼく自身、小さい頃からずっと霊体験をたくさんしてきながら、自分自身で「意味がわからない。」と長いあいだ否定してきました。家族にも友だちにも話すことは、あまりありませんでした。

でも、自分自身が感じていることというのは、もともと目に見えないことで、それって、まさにスピリチュアルな体験なわけです。

不思議なこと、奇妙に思えること、信じられないことだけがスピリチュアルな体験なのではなく、スピリチュアルというのは、誰もがふだん感じていることそのものです。

その自分自身の体験を否定することが、自分そのものを否定していたということに、ぼく自身が気づいたのが、5年前、2018年の10月のことでした。

水晶やヒーリングのお店を初めて訪れました。前日にネットを見ていて、気になる石を見つけて、その石を見に行くためでした。

お店に入ってすぐに、ショップの方が「はい。これ。」と言って、ぼくの手のひらにその石を乗せてくれました。そのあと「実は、この石、ネットで見て、気になっていました。」「はい。お待ちしていました。」という会話がありました。

こうして書いてみると、にわかに信じられないようなことです。びっくりもしたけれど、すぐに「この石はぼくにとって必要だ。」という強い思いが湧き上がり、購入して、今もそばにあります。

その店では、チャクラのリーディングとカウンセリングも受けました。

どこがどうだったのかは、詳しいことは忘れてしまいましたが、やはり「自分を否定している」ということが強く感じられたそうです。

(つづく)

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新しい時代

うまくいかないことがあるとき、落ち込んだり、できていない、自分に価値がないんじゃないかと思ったりすることがあります。

ぼくもたびたびそう思うことがありました。

そういうときは、心を空っぽにしましょう。

今朝ぼくは、自分が空き地の草っ原の一本の雑草だというイメージを頭に描いてみました。

実際に俯瞰して見れば、人間も一人ひとりがただ生きている小さな存在でしかありません。

どんなにお金持ちでも、有名でも、地位が高いとみられる人でも、それは社会的な価値でしかありません。

一人ひとりの価値は、生きていることそのものであり、感じていることがすべて価値のあるものであるはずです。

深く息を吸い込み、酸素がじんわりと染み込む。太陽は輝き、雲が流れて一瞬たりとも同じ形に止まることがありません。風が吹き、肌を撫でて通ります。心地よかったり、寒かったり、暑かったりします。

すべてただ生きているだけで感じることであり、今ここにある世界は、その感性から作り出されたものです。

ぼくは小さな漁村で生まれました。幼い頃、海岸にある岩のてっぺんによじ登り、周囲を眺めたとき、今ここにある、自分が見ている世界は、目を閉じると消えて、目を開くと閉じる前と同じように見えました。

ふと、ずっと変わらないように見えるこの世界は、見ている人がいなければ存在しないんだと強く感じたとき、なんだか怖くなりました。世界とぼくは一対の存在で、ぼくはぼくだけの世界を見ているんだと思いました。

実際に、この世界は自分が感じられるようにしか作られていませんでした。虫のようにミクロの世界は見えないし、鳥のように遠くの山のカタチは見えません。

学校では、集団という社会の中での価値を教えられます。まるで価値ということばが社会のためにあるかのようでした。ただ感じたこと、ただ言ったこと、ただやったことは、何も評価されませんでした。

今は、もうその社会の価値から離れてもいいんじゃないかと思います。何もなくていいし、何もしなくても構いません。

ただ一人ひとりが感じることから生まれる何かを大切にしていけたら、新しい時代が始まるような気がします。

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まじで生きるかどうかだぜ

少子高齢化とか、マイナスに捉えられる事象ってあるけど、それってマイナスだけじゃないんじゃない?

少子高齢化だけじゃない、いろんなことが本当はプラスかもしれない。もたろん、そういうふうに無理矢理捉える必要はないんだけど、捉えることが可能なら、その時自分は何をどうしたらいいのか、考えたい。

少なくとも何歳だろうが、今ここにちゃんと生きてる。それってすごいじゃない。めちゃめちゃラッキーだと感じます。

まじで生きるかどうか。これからそれが問われているんだと思います。

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田舎は今もただ静まりかえっています

ぼくが20代だった40数年前、田舎では、夜9時を過ぎると、どこも静まり返った暗闇だった。夜中の零時を過ぎる頃になると、薄暗い街灯と公衆電話ボックスの明かりだけが、ぽつんと光っていて、何も生きている者がいないかのようで、薄気味悪かった。

東京から帰ってから、田舎で過ごすこの深夜の時間帯が特に薄気味悪く、一番恐ろしく感じられた。他の人たちはどうしているのだろう。本当にみんな眠っているのだろうか。何か明かりが漏れていたとしても、番組の無くなったテレビが暗闇にノイズを映していただけだったりした。

2023年、インターネットがつながった現代ですら、ますます人気が無くなった田舎は、全部の蓋を厳重に閉めて鍵をしてしまったような静けさしかない。この時代しか知らない今の20代はどんな幻想を見るのだろう。もはやリアルは存在するとしても、かつてのリアルではない。

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自分が輝く太陽になる

月は美しく夜空に輝きます。その月を照らしているのは、日没後に地平線に隠れた太陽です。その時太陽は、地球の裏側を照らし、月をも照らしているわけです。

私と私の周りにいる人たちが、輝きを持ちたいと願うならば、まず自分が輝く太陽になろう。

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一つひとつていねいに生きる。それがシンプルってこと。

一つ一つを丁寧に生きていたら、余計なことごちゃごちゃする暇ないよね。それが結果的にシンプルに生きるってことになります。

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時間

時間の密度

時間には、あきらかに密度の違いが存在します。

速く感じられる時間は、実際に速く過ぎ、遅く感じられる時間は、実際に遅く過ぎています。そんなことはないと否定される方も多いと思いますが、数値の上でも時間の速度には違いがあることが証明されています。地上に於ける高度の違い、位置の違いによって時間に伸び縮みがあるのです。

もちろん、感覚的な問題を位置の問題にすり替えるつもりはありません。ただ、その違いは証明されているか否かの違いでしかありません。

未来

近年(この表現も奇妙ですが)、未来が今ここにあるということが、わかってきました。

どういうことかというと、未来は、単に選択されるのを順番に待っている、無限にある次元空間の重なりです。

その証拠に「不安」というものがあります。どの次元を選ぶかで、世界が変わります。潜在意識は、未来が今ここに存在することを知っていて、その選択が重要だと知っているので、不安を感じるのです。

今が安心であれば、不安は手放していいし、手放すことができます。

望む未来があるとすれば、その未来は掴み取るのではなく、自然に訪れます。

過去

過去は記憶としてのデータです。データは常に頻繁に書き換えられ、上書きされています。120分の映画を見たあとで、内容を鮮明に記憶して、その映画を見ていない誰かに正確に話せる人がどれくらいいるでしょうか。今、60歳の人が60年分の記憶を持つことが、もし可能だとしても、その記憶は、何度も書き換えられて、上書きされています。その記憶のデータは、今ここにあるだけです。「過ぎ去った時間」という意味での過去は幻想です。

未来の不安を手放すことが可能なように、過去の記憶に結びつけされた感情は、手放すことができます。もちろん、今の安心や喜びにつながるものであれば、何もしなくても記憶がそのように上書きしてくれるでしょう。

現在

こうした考え方を楽天主義と言う人もいることでしょう。それも選択です。そういう人にとっては、過去の重みも、未来への不安も、今まさに、ここにあるということは事実だということをお伝えしたいと思います。

この世界には、人類の現在の科学では証明できないことが無限に存在します。証明できないから「ない」ということは、科学そのものを否定していることにならないでしょうか。なぜなら、現在科学で証明されていることのほとんどすべてが、証明されていない次元(過去)を経ているからです。

最後に

ここに書いたのは、あくまで、個人の考え方だと捉えられると思います。そのように読んでいただければと思います。何か感じる方がいれば、その方の世界が変わる可能性があるものと思います。それを信じて書きました。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。