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スピリチュアル ブログ

スピリチュアル・信じる?信じない?

スピリチュアルについて、興味はあるんだけど、まわりに話せる人がいない。なんか変な人って思われそうで言えない。とか、あると思います。

ぼく自身、小さい頃からずっと霊体験をたくさんしてきながら、自分自身で「意味がわからない。」と長いあいだ否定してきました。家族にも友だちにも話すことは、あまりありませんでした。

でも、自分自身が感じていることというのは、もともと目に見えないことで、それって、まさにスピリチュアルな体験なわけです。

不思議なこと、奇妙に思えること、信じられないことだけがスピリチュアルな体験なのではなく、スピリチュアルというのは、誰もがふだん感じていることそのものです。

その自分自身の体験を否定することが、自分そのものを否定していたということに、ぼく自身が気づいたのが、5年前、2018年の10月のことでした。

水晶やヒーリングのお店を初めて訪れました。前日にネットを見ていて、気になる石を見つけて、その石を見に行くためでした。

お店に入ってすぐに、ショップの方が「はい。これ。」と言って、ぼくの手のひらにその石を乗せてくれました。そのあと「実は、この石、ネットで見て、気になっていました。」「はい。お待ちしていました。」という会話がありました。

こうして書いてみると、にわかに信じられないようなことです。びっくりもしたけれど、すぐに「この石はぼくにとって必要だ。」という強い思いが湧き上がり、購入して、今もそばにあります。

その店では、チャクラのリーディングとカウンセリングも受けました。

どこがどうだったのかは、詳しいことは忘れてしまいましたが、やはり「自分を否定している」ということが強く感じられたそうです。

(つづく)

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これから始めます

思ってても、ことばにしないと、本当に始められない氣がするので、ここにことばにします。

郷土史研究家になります

先日岩美町出身の音楽家田村虎蔵先生の講演を行いました。深掘りして調べて、自分なりの考えを発表したところ、ある郷土史研究家の方から「あなたも立派な郷土史研究家だよ。」との言葉をいただきました。ああ、そうか。自分で名乗ればいいんだと納得しました。確かにもっと知りたいし、今後のため、人のためになることです。伝えたいこともあります。

今回調べていく中で、田村虎蔵さんを中心に、村岡範為馳氏、永井幸次氏、石原和三郎氏、納所弁次郎氏、岡野貞一氏、滝廉太郎氏、東くめ氏など、有名な人物だけでも豪華キャスト陣が揃った印象でした。ふと、1冊の本ができそうだと思ったので、たぶん実現すると思います。

リコーダー演奏家になります

クラリネットに始まり、ギター、オカリナと演奏してきました。なぜか、今、リコーダーが来てるって感じています。情報として見るものに縁を感じます。シンクロしています。

まず、10月1日にグループでのプロの講習を受けようと思います。

Udemyで講師となります

まずは、オカリナについて、伝えたいことをまとめて、発表しようと思います。これからは、ここから収入も得られると思っています。

リラクゼーション、スピリチュアルをやります

今やっているのは、アクセスバーズです。もともとスピリチュアルは、特別なことをやっていたわけではなく、今までの人生がスピリチュアルそのものでした。

小さい頃は、霊が見えたし、虫や動物たちと交流がありました。人間が感じる音や光だけではない、違う音や光、感性があることを実感して生きてきました。

そこを隠すことなく、伝えていきたい。もともと「生きることに意味を探さなくていい。」生きていることそのものが意味だということを実感できるなら、社会そのものの在り方が根本から変わるという信念を持って、リラクゼーション、スピリチュアルに取り組んでいきます。

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スピリチュアル ブログ

新しい時代

うまくいかないことがあるとき、落ち込んだり、できていない、自分に価値がないんじゃないかと思ったりすることがあります。

ぼくもたびたびそう思うことがありました。

そういうときは、心を空っぽにしましょう。

今朝ぼくは、自分が空き地の草っ原の一本の雑草だというイメージを頭に描いてみました。

実際に俯瞰して見れば、人間も一人ひとりがただ生きている小さな存在でしかありません。

どんなにお金持ちでも、有名でも、地位が高いとみられる人でも、それは社会的な価値でしかありません。

一人ひとりの価値は、生きていることそのものであり、感じていることがすべて価値のあるものであるはずです。

深く息を吸い込み、酸素がじんわりと染み込む。太陽は輝き、雲が流れて一瞬たりとも同じ形に止まることがありません。風が吹き、肌を撫でて通ります。心地よかったり、寒かったり、暑かったりします。

すべてただ生きているだけで感じることであり、今ここにある世界は、その感性から作り出されたものです。

ぼくは小さな漁村で生まれました。幼い頃、海岸にある岩のてっぺんによじ登り、周囲を眺めたとき、今ここにある、自分が見ている世界は、目を閉じると消えて、目を開くと閉じる前と同じように見えました。

ふと、ずっと変わらないように見えるこの世界は、見ている人がいなければ存在しないんだと強く感じたとき、なんだか怖くなりました。世界とぼくは一対の存在で、ぼくはぼくだけの世界を見ているんだと思いました。

実際に、この世界は自分が感じられるようにしか作られていませんでした。虫のようにミクロの世界は見えないし、鳥のように遠くの山のカタチは見えません。

学校では、集団という社会の中での価値を教えられます。まるで価値ということばが社会のためにあるかのようでした。ただ感じたこと、ただ言ったこと、ただやったことは、何も評価されませんでした。

今は、もうその社会の価値から離れてもいいんじゃないかと思います。何もなくていいし、何もしなくても構いません。

ただ一人ひとりが感じることから生まれる何かを大切にしていけたら、新しい時代が始まるような気がします。

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スピリチュアル ブログ

感じるを見る

いつも通り慣れている緑あふれる坂道を、コンタクトレンズもメガネもつけないで歩いてみた。世界が360度広がる感覚が心地いい。そのうち、細かいディテールが見えないことは、まったく気にならなくなる。

そして、ふだんいかに「識別して判断する」ということに神経を使っていたのかが、よくわかる。

こうして文字が見えれば、文字を読む。内容を理解する。それはそれでごく自然なことなんだけど、何気なく風景を見ていても、その脳の働きのまま風景を見ていたということなんだろう。

識別して、判断するということを絶えず続けていると、気が付かないうちに他の感覚は薄れていく。その薄れた感覚のまま日常を過ごして、流されていく。

現代は情報にあふれている。行ったことがない、たぶんこれからも行くこともないような、遠い田舎の出来事でも身近なことのようにテレビから流れてくる。ふと、何かを感じた時に、メガネを外すように、そういった外側のあふれて流れる情報から、少し距離を置くことも必要なんじゃないだろうか。

いつも聞き逃している風の音や小鳥のさえずりを、感じるままに聞いたとき、自分が描いていた世界が変わるんだと思う。そして、そういった繊細な感性を、私たちは生まれながらにして持っていることを忘れないでおこう。

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see feel

As usual, I walked along the familiar green slope without wearing contact lenses or glasses. It feels great to feel like the world expands 360 degrees. Eventually, not being able to see fine details will no longer bother you at all.

And it’s clear to see how nervous he was about “identifying and making decisions.”

If you can see the letters in this way, read them. Understand the content. That’s completely natural, but even when you’re casually looking at a landscape, it probably means that you’re looking at it with the same way your brain is working.

If you constantly identify and judge, your other senses will fade without you noticing. I go about my daily life with that faded feeling and get swept away.

Today’s world is full of information. Events in faraway countryside, places I’ve never been to, and probably never will, are broadcast on TV as if they were familiar to me. Just like taking off your glasses when you suddenly feel something, isn’t it necessary to distance yourself a little from the overflowing information from the outside?

When I listen to the sounds of the wind and the chirping of birds, which I always miss, as I feel them, I think that the world I imagined changes. And let’s not forget that we are born with such delicate sensibilities.

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PC ブログ

ブログの続け方

 ぼく自身のこれまでがそうだったんですが「ブログを書かなきゃ。」って、義務に感じた途端にパタって書けなくなっちゃうんですよね。

 今もそうですけど、思ったときに思ったことを書くから、書けるんです。

 それで、長さがーとか、写真がーとか、広告がーとか、考えないでいいんです。

 その辺は、あとでいくらでも修正できますし。

 ということで、おやすみなさい。

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オカリナ ブログ 音楽

虎蔵さんのこと

 ぼくは、二十代の終わりに東京から鳥取に帰ってきて、10年ほど経った頃、音色の美しさに惹かれて、オカリナを吹き始めました。

 時折訪れる公民館の高いところに、掲げられていた、いくつかの肖像の中に虎蔵さんの肖像もありました。

 虎蔵さんのことは、「金太郎」「だいこくさま」「花咲か爺」「一寸法師」などの作曲をし、言文一致唱歌を提唱した先生だというのは、岩美町民はよく知っています。

* * *

 新型コロナ騒動の渦中に満60歳を迎え、シニアバンクに登録するとまもなく、虎蔵さんのことを皆さんの前で話してください。という依頼がありました。何度か延期となり、この度ようやく実現することになりました。新たな機会をいただいたことに感謝しています。

 僭越ながら、末っ子で生まれて、18か19くらいで上京したこと、明治・大正・昭和という時代の変化を経験したことなど、音楽家としても共通点があり、親しみがありました。(ぼくは、昭和・平成・令和を経験した世代と後々言われます。)

 虎蔵さんが納所弁次郎さんらと言文一致唱歌を提唱した頃、滝廉太郎さんが幼稚園唱歌の中で、今でも歌われている「お正月」「鳩ぽっぽ」などを作曲されています。その数年後に滝廉太郎さんは亡くなってしまわれます。

 ちょうどその頃、虎蔵さんは、それまでとまったく曲調の異なる「青葉の笛」を作曲されていて、出だしの音が「荒城の月」に似ているのは、もしかしたら若くして亡くなった滝廉太郎さんを偲んで作られたのではと思ったりもしましたが、そういう記録は見つかりませんでした。

 音楽に限らず、芸術は、今でも格調高く、歴史があり、権威があるものにこそ価値があるとされる傾向があります。そのため、敷居が高く、敬遠されている面があります。

 虎蔵さんは、音楽はもっと身近なものであってほしい、子どもたちこそ音楽の楽しさを伝えたいと願いました。それは、音楽が心を豊かにする人類共通の言語だからです。その願いを、ぼくも引き継いでいきたいと思っています。

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ブログ

片付けるのほんとうの意味

ぼくは、割とまめに片付けていると自負しています(した)。

身の回りは、すっきりとしていると思います(いました)。

でも、ふと、気がついちゃったんですね。(@_@;)

使わないものを整理する、要らないものを捨てる

というのが、片付けるのほんとうの意味なんだと。

あっちゃー!!

「なにそれ?当たり前のことやん。」

と思っている方は、この先は読む必要なし、ナッシングっす。

読んでない本、もう読まない本が本棚にある方。

もう滅多に聞かないCDがラックに並んでいる方。

既に使わない、使わなくなったケータイやら、タブレットやら、スキャナーやら、ケーブルやら、ありとあらゆるこれまでの歴史がどっかダンボールとかの中に残っている方。

みんな、それ。

ぼくは、ふだん使うものを整理してました。それが片付けだと(自慢はしてないけど)、それでいいと思ってたんですね。

でも、結局、「あれ、どっかにあったよなぁ。」とか、

「これ、なんかのときに要るよなぁ。」ってな曖昧な理由でひきだしの奥に押し込んでたりしたんですね。

スティックのりがあっちにも、こっちにもあったり。

きっと、こんまりさんの本とかには書いてあるんだろうな。

ああ、でも、気がついた。

よかったやん。

あとは、実践あるのみ、やね。

一緒に、やらへん?

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まじで生きるかどうかだぜ

少子高齢化とか、マイナスに捉えられる事象ってあるけど、それってマイナスだけじゃないんじゃない?

少子高齢化だけじゃない、いろんなことが本当はプラスかもしれない。もたろん、そういうふうに無理矢理捉える必要はないんだけど、捉えることが可能なら、その時自分は何をどうしたらいいのか、考えたい。

少なくとも何歳だろうが、今ここにちゃんと生きてる。それってすごいじゃない。めちゃめちゃラッキーだと感じます。

まじで生きるかどうか。これからそれが問われているんだと思います。

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何かをする、決める

「こんなことをしたい。」という思いは、妄想なんですね。妄想は、たいがい実現しません。実行が伴わないのが妄想ですから。

 ぼく自身の体験では、えいやっと、がむしゃらに立ち向かうという時期もありました。それは実行しているようで、その中身がいい加減だったりします。これを人は「暴走」と言います。バイクには乗っていましたが、そういう意味ではありません。

 そのあと、考えて、ひとつひとつ行動をするようにはなりました。あくまで「頑張る」というスタンスです。時に自己犠牲が伴います。そして、やたら人ともめます。今の地球人類の国家間の状況がそうではないでしょうか。急に話が大きくなりましたけれども。

 考えることよりも、まず感謝なんだと気づいたのが最近です。

 そんなことは、思いもしませんでした。これは年齢のなせるわざでしょうか。これを共通の意識にできないものでしょうか。

 何をすればいいかは、自然と決まっていきます。

 年齢も、社会も、経済も、あまり関係ありません。

 愛と感謝です。

 そこから、自分が感じて、決めるだけです。

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スピリチュアル ブログ

いつもここにある「見えない世界」

 最近の原発処理水の海洋放出問題に対して、ぼくは特段の専門的な話ができるわけでもありません。ただ、不思議に思うのは、言論が真っ二つに分かれてしまっていること、です。

 右でも左でもないし、赤でも白でもない。本当は、そういう人のほうが多いはずです。

 ぼくが生まれ育ったのは、漁村です。漁業者が海洋放出に反対するのは目に見えています。獲った魚の価値が下がるからです。毎日セリをしている人は、それを一番恐れます。生活に直結するからです。

 漁業者に限らず、反対している人は、反対する理由を探します。危険だと言っている人を支持します。賛成している人も、同じように行動しています。

 この問題に日々取り組んでいる人にとっては、海洋放出はやりたくはなくても、やむなしと思っていると思います。一つ一つコストがかかっているからです。やむを得ないのであれば、できるだけ、自然に影響がないようにと、努力をされていると思います。

 放射能は、目に見えない「不安」です。トリチウムのβ線がいくら人体に影響がないと言っても、他にも放射能が残っているのではないかと疑います。自然に与える影響もわかっていません。

 目に見えない「不安」という意味では、電磁波、とくに携帯基地局の電磁波の影響を不安に思っている人は多いようです。

 携帯電話やPHSが出回った頃は、耳に直接電話機をつけて会話すると、脳に影響があるという人がいた記憶があります。実際にそういったデータもあったように思います。

 その後、出力を抑えて厳しく規制するようになりました。最初に話したように、ぼくは専門家ではありませんので、それ以上のことはわかりません。ただ、自分の調べた範囲で安全性は確保されていると信じています。

 放射能の話に戻りますが、2011年から数年、ぼくも空間線量を調べたことがあります。鳥取でも日によって、値が変わることがありました。天候や風向きによってもごくわずかに変化します。それは、もともとの自然放射線と同じようなものとしか言えません。

 この頃は、ぼく自身も目に見えない精神的な「不安」に苦しんでいた頃でした。

 スピリチュアルな世界も人によっては目に見えない世界です。何も感じない人はいないので、本当は誰もが「ある」ことを知っています。

 結局は、自分自身が感じたものを信じること、「愛と感謝」を基本にして、思いを伝え合うことが大切なんだということです。