意志よりも意識

久しぶりに予定がなにもない、日曜日。ここぞとばかりにぐーたらと寝たり起きたりして過ごした。

今日1月17日は、26年前の1995年に阪神淡路大震災が起きた日だ。1月も半月以上過ぎた。

こうしてブログが続いているのも不思議だ。昨年は4月から数ヶ月はヒマだった。それでも続かなかったブログが半月以上続いている。20年くらい前、ヘビースモーカーを超えるチェーンスモーカーで、何度もやめようとしては、やめられなかったタバコをある日ばったりとやめた。あのときの感覚に似ている。「タバコをやめたい。やめたい。」と思っている間は、意識のどこかで「やめられない。」と思っていた。

タバコをやめようと思ってやめたのではなく、「なんか、もう吸わなくていい。いらない。」と思うことができた。

今も「続けなきゃ。」じゃなくて「続けられる。」という感覚がある。そういえばオカリナもそうだったな。ずっと吹き続けられると思ったんだった。意志ではなく、意識が生きるってことなんだなぁ。今、どんな意識があるかというと、やはりアウトプット、感じたことを外に出して眺めたい。その流れの中での自分自身を見てみたいというものだ。

感覚というのは、基準を作ってしまうと、ある一点からが良くて、その一点からが悪いに分けてしまうことになる。どんな感覚も、ただ違いがあるのであって、もともと基準はない。人間が社会生活をする上で、分類をして、都合として基準を作っただけなのだ。

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