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すべての物質が、いのちを持っています

 ぼくはクルマの運転が好きで、よくクルマを走らせているんですけど、トンネルに入るとき「山の胎内に入る」というイメージがどうしても浮かぶんです。これはわかる人にはわかるし、理解してもらえると思うんですが、山にはタマシイが宿っています。トンネルに入ったとき、ぼくは安全にクルマを運転しながら、山のタマシイを感じるんです。

 石ころや、日常使っている道具なんかにも、いのちを感じたりすることってありませんか。宝石とか、ネックレスとか、どうでしょうか。それは、人間がいのちを与えているんだ、吹き込むんだっていうかも知れませんが、もともと、いのちを持っているって感じるときがあります。

 考えてみれば、人間のカラダもほとんど多くが「水」です。水は単なる構成する物質で、媒体だっていうんでしょうが、脳みそだって、ほとんど水だし、人間は、水がないと生きられないいのちなわけです。

 結局のところ、いのちって何だって考えたら、存在そのもの、感じるものすべてがいのちだって思うんですよね。そこにあるのは、波動なんですね。水晶の原石とかって、すごいじゃないですか。波動を感じますよ。

 すべてがいのちだとしたら、すべてが大切な存在なんだってことですよね。意識が変わると思いませんか。

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新しい命に祝福を

 何も人間の赤ちゃんのことだけを言うのではありません。あなたの体にも、新しい命が、この瞬間にも生まれています。

 どんな生き物でも、年齢が何歳でも、生きている限り、この生命の仕組みは変わりません。

 細胞が生まれ、消滅し、吸収されていく。

 満たされないこと、衰えること、死に近づくことを嘆く前に、まずこの命に感謝することが大切です。(本当に感謝できたとき、死はいつもその一部として、命のうしろに隠れていることに気づきます。)

 この目に見えない小さな細胞のひとつひとつは、無限のパワーのもとになっています。地球や、天体、宇宙の営みとシンクロしています。

 ぼくはいつも感謝しています。

 読んでくれて、ありがとうございます。

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開かれた世界につながる無限の感覚

プロローグ

 ぼくが、10歳くらいまでの幼い頃、たびたびイメージに現れたのは、球体と自分自身の意識が一体となって、落ちていく感覚でした。

 その球体は、巨大で地球の大きさを超えて、とても永遠のように重みがあるように感じられたと思った瞬間に、手のひらに吸い込まれるくらいに小さく、軽く、消えていきそうになることがありました。

 落ちていくさまは、それが始まって、目を閉じている間は、ずっとずっと感じられていて、その行きつく先を見てみたいという衝動に駆られるのだけれど、どうしても我慢できなくて目を開けてしまいます。そして、目を開けてしまうと、もうその感覚はしばらくは戻ってくることはありませんでした。

霊が見える

 ものごころついた頃から、割と大人になっても、ずっと霊を見ることがありました。その一方では、理性が否定をし続けていました。「見える意味がわからない。」「脳が勝手に映しているだけ。」「単なる幻影だ。」「自分がどこかで怖がっているから、見えるのだ。」

 誰に言われたわけでもなく、自分でそう言い聞かせることで、割と最近まで、霊が見えることを人に言うことはありませんでした。無意識に人と違う自分を認めたくなかったのかもしれません。

 50歳半ばを過ぎるくらいになって、ようやくこの世界での自分を取り戻しつつある頃から、霊は自然と見えなくなりました。

 霊がどんなふうに見えていたのかというと、ぼくの場合は、完全に人間のカタチで見えることは稀で、火の玉だったり、オーブであったり、靴を履いた足だけだったり、壁から首だけが見えるというような感じでした。それも、昼夜問わず、どちらかといえば、昼間見ることの方が多かったように思います。

 それは、今思えば、サインのようなもので、既に霊界にいる方が、なにかを伝えようとしていたと考えられていて、友人の死や、東京で暮らしているときに郷里鳥取で起こった地震を知らせる夢のようなものも現実にありました。

 霊が見えると言ったときに、よく聞かれるのは「怖くないのですか。」ということですが、深夜に部屋の壁から首が見えたときには流石にギョッとしましたが、不思議と、怖くてブルブル震えるというようなことはありませんでした。

 よほど、テレビで怖い番組をやっているのが、想像を刺激されて怖い感じがします。

幽体離脱

 10歳か、それくらいのときに、幽体離脱をした経験があります。なんとなく眠れずにいると、気がつくと、その寝姿を上から見ていました。意識がはっきりしていて、その場所を離れるとまずいことになりそうだと思った瞬間、もとの体に戻っていました。

 その後、意図してやろうと試みたことがありますが、それっきり、幽体離脱はできていません。

イメージを読み取る

 霊体を見ることはなくなりましたが、そのイメージを否定していたのは、自分自身だったことに気づきました。本来「意味がわからない。」と否定しないで、感じたことをそのまま受け取ればよかったわけです。

 今でも、イメージを受け取ることはあります。それが、夢だったり、ふとした感覚だったりします。そして、すべてに意味があると思っています。


 アクセスバーズをやっています。お申し込み・問い合わせは、こちらからどうぞ→アクセスバーズ60分(6,600円)

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クリアリング・ステイトメント

 アクセスバーズに、クリアリング・ステイトメントってあるんですね。これが、ぼくは「ちちんぷいぷい」とか「ビビデバビデブー」とかに似た、魔法の呪文、おまじないみたいで、おもしろいなって思ったんですね。

 もちろん、ふざけているわけではないんですよ。元はひとつひとつが意味があることばを、ギュッと凝縮してあるわけです。そういう意味で言えば、たとえば般若心経とか、ご真言、あるいは「なむあみだぶつ」みたいな宗教的なことばのようでもあるけれど、それともちょっと違うんですね。

 感覚として近いのは、ハワイのホ・オポノポノなのかなって思います。それって、何?って思った方は、調べてみてくださいね。「ありがとう」「ごめんなさい」「ゆるしてください」「愛しています」この4つのことばを繰り返し、感情を込めずに唱えるメソッドがあるんです。ハワイ語や英語じゃないといけないという人がいますが、ことばは、波動ですので、潜在意識に働きかける効果は何語でも変わりません。

 ぼく自身の体験もそうですが、いろんな人を見ていて、潜在意識のブロックって、かなり強力だということがわかります。

 いちばんわかりやすい例として、よく挙げられているのが、お金に対するブロックです。人は、まるで空気か水かのように渇望して、「お金がないと生きられない。」とさえ常に思っているんですね。

 でも、そう思っている人に「次にお金を支払うときはいつですか。」という質問をすると、明日だったり、1週間後だったり、わからなかったりするわけです。それは、とんでもなく巨額の借金を抱えている人ばかりではなくて、じゅうぶんにこれまでも生活できている人でも、まったく同じです。そういう、ぼく自身もそうでしたし、請求書をもらっていて、まだ支払っていないときなどは、気にはなります。だけど、払ってしまうと、その感覚は一瞬で消えてしまい、すぐに忘れます。

 本当になくて困る空気や水に対しては、そんなに思わないんですね。災害が起きて、水が不足すると、どうしようと思うけれど、それでも、人は生きています。空気や水は、何もしなくてもただ受け取るだけでいいわけです。日本人は特に、もともと常にあると思っています。

 お金ばかりではありませんが、そうしたブロックを外しましょうと、潜在意識に働きかけるのが、アクセスのクリアリング・ステイトメントです。「破壊(デストロイ)して、アンクリエイトしますか?」と実際に問いかけることもあります。

 そうなんです。潜在意識のブロックに対しては、「破壊する」くらいのインパクトが必要なんですね。そのあたりは、とても明確です。

 クリアリング・ステイトメントについては、英語ですが、ドクター・デーン・ヒアによる解説を参考にしてください。

 ずっと囚われていた感覚がここにあります。実際に、ぼくの感覚は以前より、ずっとクリアになっています。だから、書けている文章なのかも知れません。

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どうして人は、自分には足りないものがあると思ってしまうのだろう?

 現実に「足りないもの」は、あると思います。

 というか、誰もが「足りないもの」だらけで、探せば、すぐにたくさん見つかるんじゃないかと思います。

 たくさんの人が、お金に困れば足りないと思い、なにか満足できないことがあれば、人が足りない、愛が足りない、体力が足りない、知識が足りない、と枚挙にいとまがありません。

今、ここにすべてがある。

 よく言われますね。これが本当のことあり、「存在」の本質です。本当に、すべてがここにあります。

 でも、なぜ、人は「足らない」と思ってしまうのでしょう。

 それは足りないと「考える」からです。

 生まれたばかりの赤ちゃんは考えません。おっぱいが足りないと感じれば泣くだけです。考えているわけではありません。

 赤ちゃんのように、考えるのではなく、自分が何をどう感じているのかに意識を向ければ、生きているだけで満たされていることに気が付きます。

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夢レポート12月28日

夢の内容を鮮明に思い出せる

 ここ1週間か10日間くらい、朝目覚めたときに、寝ている間に夢の内容をほぼ正確に覚えていることが続いています。

 これには、何か意味があるんじゃないかと思い、夢リポートを不定期で書いてみようと思います。

今朝の夢のストーリー

 今回の登場人物は、ある女の子です。

 彼女は自撮りで動画を撮って、公開するという趣味がありました。とても明るく、はつらつとした動画です。とても楽しい動画で、ぼくはすっかり彼女のファンになってしまいました。

 ところが、その彼女に会ってみると、ふだんは、とてもおとなしく、ふさぎ込むこともありました。まわりに人がいても目立つ行動はまったくしません。不機嫌そうな顔でぽつりぽつりと話す姿は、動画に見られる彼女と同じ人物かと疑われるほどでした。

 でも動画を撮り始めたとたんに、見慣れた姿に変身します。

 ぼくは何かお手伝いをしたいと彼女に申し出て、ぼくが持っている携帯で動画を撮り始めます。

 最初、ぼくのお手伝いを喜んでいた彼女でしたが、なぜか乗り気になりません。自撮りで、つまり撮られている画像を自分で見ながらでないと、気分が出ないようです。

 そこで、彼女に背を向けて、自撮りスタイルで撮り始めます。その映像には、ぼくの姿はなぜか映りません。このあたりは夢ならではの現象なのでしょう。

 彼女はまた違ったノリを見せてくれるようで、とても魅力的な動画が撮れました。このスタイルが気に入ったようです。

 そのうち、自撮りではなく、最初に試そうとした、あとでモニターを見るという方法でも、動画が撮れるようになりました。モニターを見るたびにアイデアが湧くようで、内容もその都度フレッシュで、どんどん良くなっているのがわかります。

 だいたいこんな内容の夢でした。彼女はまったく知らない人物で、名前も年齢もわかりません。夢の中のぼくも、今のぼく自身ではないような気がします。夢の中の動画の内容は、なぜかまったく思い出せません。

ここから夢分析をしてみます

 ひとまず、出かける準備をしますので、夢分析はあとでやります。とにかく、何か意味があるような気がします。いつもなら、夢のことを覚えていても、数時間経つと、その内容も忘れてしまっています。

 昨日見た夢も印象的でした。名前が2つある女性の夢で、その名前も覚えていたのですが、もう今では忘れています。ひとつはごく一般的な名前で、もうひとつは、想像もできない読み方をする名前でした。芸名やペンネームにしては奇妙な感じがありました。

 その前には「遺言」をぼくに書いてほしいと依頼する女性の夢を見ています。まったく深刻な表情ではなく、気楽に買い物かなにかを頼むような感じで、ぼくに話しかけてきました。

 ここに登場するのは、3人ともまったく違う女性です。

 さて、出かけます。もしかしたら、何か別の世界があって、続きのストーリーがあるような気がしてきました。

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喜びは、いつも隣にある。

 苦しいときに考えることと言ったら、誰もが「苦しい、早く楽になりたい。」だろうと思う。「自分は、いったい何をやっているんだろう。」とか、「こんなはずじゃなかったのに。」とか。ぼくも本当にずっと、そう思っていました。

 年齢を重ねて振り返ったときに「あの経験があったから、今がある。」そう思えることが、これまでにたくさんあったとしても、苦しいときは「苦しい。」と思う。それを無理に「楽しい。」と思わなくてもいいでしょう。苦しいときは、苦しみとして認めて、味わうしかありません。

 それでも、今は喜びがいつも隣にあることを知っています。知っているだけで、そのままを味わうことができます。意識ってすごい力があるんですね。

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アクセスバーズ スピリチュアル ブログ 挨拶

体感があることは、伝えやすい。

 というよりも、言葉だけで伝えている、伝わっていると思っていても、実は体感を共有しているから、伝わっているということがあります。

 たとえば「赤いバラが咲いています。」と誰かが話したとします。匂いを知っている人は、匂いを共有できます。その鮮やかな色を知っている人は、その色を共有できます。

 中には、赤いバラを見た記憶がある季節を感じたり、赤いバラから連想される過去の出来事を思い出す方もいるでしょう。

 もし誰かが「北欧で見るオーロラは美しいね。」と言っても、日本人のほとんどの人が写真でしか見たことがありません。「そうなんだろうなぁ。」とは思っていても、体感がないので、伝わってきません。中には「たいしたことないかも。」と思っている人もいるでしょう。「寒いし、待つ時間が長い。」と思えば、実際に見に行こうとも思いません。

 「やっぱり升席で見る相撲は迫力あるね。」と誰かが言ったとしても、やはり見たことがない人には実感がありません。「ベンツ、最高だよね。」って言われても、ただ単に自慢されているようにしか思えません。

 人々が実感をもって感じるのは、体験を通して得た記憶です。人づてに聞いたことや、インターネットや本で見て、読んだものは、記憶や知識には残っていても、実感、体感はありません。

体験してほしいこと

 今、アクセスバーズのことを考えながら、この文章を書いているんですが、伝えようとしている人に「体感の共有」がない場合、どうやって伝えたらいいんだろうと、思っています。

 相撲の升席や、ベンツのことを伝えるみたいに、詳しく実況したらいいんだろうか。どうしたら升席に座れるのか、どうしたらベンツに乗れるのか、アクセスバーズで何が得られるのかとか。

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花は、咲く。

 標題に点「、」と丸「。」を付けたので、曲のタイトルと間違われないでしょう。花は咲きますね。見事です。どうしてあんなにいろんな色がいっぱいなんでしょうか。下には土か水しかないはずなんですけど。花を見ると、生命の神秘を感じますし、癒されるし、エネルギーを感じます。束にして、ただの水道水に茎を切って漬けているだけで、何日も咲いているし、緑色のつぼみだったのが、色づいて開いてきます。

 ところで、善と悪の話をします。花が咲くことは善でしょうか、悪でしょうか。

 上に書いたようなことがあるから、ふつうは花が咲くことは善だと言うのでしょう。そして、花が枯れるとしたら、悪だというのでしょう。

 でも、よくよく考えてみれば、枯れなければ、新しい花は咲かないんですね。そうしたら、善も悪もないじゃないかって思うわけです。

 ついつい、人は善悪で判断しようとしますけれど、そのままを認めることの方が、大切なんじゃないかなって、ふと思ったのです。

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地球という命

 地球は、生きています。地球全体として、循環があり、成長し、活動しています。そして、地球と地球外環境とは、明確に区別することができます。間違いなく、地球は生命体です。

 子孫を残せないから、生物とは言えない。と言うかも知れません。それは、地球から見れば、ミクロの存在である人間の言い分に過ぎません。宇宙にある天体は、長い年月の間に「破壊と創造」という「細胞分裂」を繰り返しています。

 地球がひとつの命だとしたら、私たちは、その細胞のひとつひとつです。どの細胞にも役割があります。それを運命と言うのかもしれません。ただ、役割は運命かもしれないけれども、束縛ではありません。

 地球は、一人ひとりがそれぞれの世界を作っていけるパラダイスです。