老人としての可能性

ぼくは、常に、今ここに生きているすべての人が「同時代人」だと思っている。「世代」というカテゴリーを「時代」に置き換えたら、1歳だろうが、100歳だろうが、同じだ。

一方で、個人のカラダというのは、年齢によって変化する。ぼくは今、59歳だが、社会制度的には「壮年」であって、65歳からが「高齢者」なのだそうだ。それに、近年「老人」という言い方はあまり聞かれない。「老人ホーム」は「高齢者施設」だ。

まあ、何歳が老人でも、高齢者でも、呼び方もどうでもいい。

ぼくが、鳥取に帰ってきたころ、父親は今のぼくと同じ、59歳だった。その父親はぼくから見れば老人であった。そうであるなら、子どもから見れば、ぼくも今、老人であっていい。

二十代のころ、可能性というのは、未知の世界にあって、手の届かないものだった。5年後や10年後を考えなさいなどと言われて、何も浮かばなかった。5歳年上、10歳年上の人を見て、何が違うのかが見えなかった。

今、ふと、あらゆる可能性がこの瞬間にも存在していることを知っている。

生きること、そのものが可能性だったりもする。

ひょっとすると、老人とは、すべてを可能性に変えることができる人を言うんじゃないだろうか。今後、ぼく自身、体の不調によっては、生死をさまよったり、苦しいこともあるだろう。それは不運ではなく、当然のこととして、ただ、すべてを可能性にして生きる。

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